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2作の「ドービニーの庭」の比較

ゴッホ自殺の1ヶ月以内に描かれたという「ドービニーの庭」。その一つが日本のひろしま美術館に展示されているので知っている方もいるだろう。実はそのひろしま美術館にある「ドービニーの庭」は作者自身が1890年7初旬に描いた作品を模写したものであるが、専門家の研究によりひろしま美術館の「ドービニーの庭」には加筆されていることが発見されたのである。

ちなみにドービニーとはバルビゾン派の画家シャルル=フランソワ=ドービニー(1817年〜1878年)。1860年よりオーヴェル=シュール=オワーズに移り住み1890年は細君が住んでいた。

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「ドービニーの庭」のゴッホの記述

ドービニーの庭
スイス・バーゼル美術館蔵 1890年7月初旬ドービニーの庭
広島市・ひろしま美術館蔵 1890年7月20日頃
ドービニーの庭のスケッチ

第六五一信のテオ宛の書簡で「ドービニーの庭」のスケッチ(上絵)と書き込みがある。日付は7月23日、実に自殺する6日前の手紙である。

ドービニーの庭の前面には緑と赤の草が生えている。左側に緑の茂みとリラがあり、切り株から出た葉が白みがかっている。中央の地面にはバラの花壇がある。右側には柵と壁、壁の上に紫がかったハシバミの木がある。それからリラの垣根と黄色い丸みのある菩提樹が列を作り、奥の突き当たりの家の壁はバラ色、屋根の瓦は青みがかっている。長い腰掛が一台に椅子が三つ、黄色い帽子をかぶった黒い人影と、前面に黒猫がいる。空は薄緑。

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「ドービニーの庭」の謎に迫る!

両者の「ドービニーの庭」を見比べると、模写なので全体の構成はほぼ同じであるが良く見ると、ディティールが違うのが分かる。その謎を検証していきたい。

左下の『黒猫』

バーゼル版(上)の左下には『黒猫』がいるがひろしま版(下)には『黒猫』がいないことに気付いただろうか?むしろひろしま版は赤い絵の具で塗りつぶされているようにも見える。今までは『黒猫を消しているのは、自殺する自身になぞらえて消したように見せた遺言』という説もあったが、2008年に科学的に文献を検証すると意外な事実が判明した。

なんと1900年にひろしま版の「ドービニーの庭」がオークションにかけられた際のオークションカタログの写真にはしっかりと『黒猫』が写っているのである!

では、ここで『黒猫を消したのは誰か』『いつ消されたのか』という疑問になる。

有力とされている説は1901年3月の『ゴッホ回顧展』のために消されたという説である。この回顧展の企画に尽力したのがゴッホの生前からの友人のルクレルクとシェフネッケルである。シェフネッケルは傷みの激しいゴッホの絵を何点か修復した。その際黒猫が消される修正がされたという。今日見ると修正されたのがすぐわかるが、それは経年変化によるもので当時は周りの色合いと合わせられた。その証拠に1904年に撮影された写真では『黒猫』は消されているという。

右下の『サイン』

バーゼル版には右下に『サイン(ドービニーの庭と書かれている)』が入っているが、ひろしま版には入っていない。これは一体どういうことだろうか?ひろしま版の「ドービニーの庭」はゴッホの意向でドービニー夫人に贈られた。通常ゴッホが絵をプレゼントするときはサインないしはタイトルを付加する。しかし、手元に置く用のバーゼル版にはサインが入り、プレゼントしたひろしま版にはサインはない。

ゴッホの死後、テオがドービニー夫人に手渡したが、テオは知ってか知らずかプレゼントする絵を手元に残し、手元用をプレゼントしたと考えられる。もしこれが正しく行われていたならバーゼルのものがひろしまにあり、ひろしまのものがバーゼルになったと思うと不思議なものである。

ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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