ゴッホは日本で最も人気のある画家の一人といっても過言ではない。
『情熱の画家』ゴッホ、その情熱ゆえに耳切り事件を起こし、天才ゆえに誰にも理解されず自殺、今日の日本のゴッホに対する印象である。
さらに1987年に「ひまわり」約58億円で日本人が落札したことでゴッホ人気に拍車がかかり、日本でゴッホといえば知らない人がいないまでになった。
しかし、ゴッホが色彩を独学で研究したり、友人たちに手紙でやり取りしたり、生まれてくる弟の子どものために絵を制作したりなど、孤独や情熱などとはほど遠いやさしく研究熱心な姿はそんなに知られていない。
このサイトは、ゴッホを知らない方はわかりやすく、知っている方もより詳しくなれるようにまとめたサイトである。このサイトを通じてみなさんにゴッホの真の意味での素晴しさをわかって頂けたら幸いである。
ゴッホは画家になるべくしてなったか、答えはノーである。
青年時代は画商で働き、聖職者を目指したが志がかなわず、やむなく画家になった。1881年、ゴッホ28歳の遅い出発であった。自殺したのが37歳。わずか9年ほどのキャリアである。
さらに言えば、日本で知られている「ひまわり」「星月夜」「夜のカフェテラス」など著名な作品は晩年3年ほどの作品である。
1853年オランダ・ズンデルト村にてゴッホは生まれた。意外に思われるかもしれないがゴッホはフランス人ではなく生粋のオランダ人である。6人兄弟の長男として生まれ、父は聖職者であった。4つ下の弟テオドルス(通称テオ)はゴッホの人生を語る上でもっとも重要である。今後もたびたび出てくるので読者にはぜひ覚えて頂きたい。
1869年ゴッホ16歳のとき、伯父の設立した「グーピル商会」ハーグ支店(オランダ)で働くこととなった。最初は真面目に勤務していたが上司や伯父との折り合いが悪くなり、1873年にハーグからロンドンへと転勤することとなった。ロンドンで2年間勤務後、さらにパリ支店へ転勤したが拝金主義であったグーピル商会に嫌気が差し1876年4月、ゴッホは退職(解雇の可能性もあるが)した。約7年間勤務した。
グーピル商会を退職後、教師や書店店員となるがいずれも長続きはしなかった。趣味で素描(ペンでスケッチすること)程度はしていたが職業としては考えていなかった。父の影響で少年時代から聖書を専心に読んでいたので、聖職者へなりたい思いが強かったようだ。家族から金銭的援助を受けながらオランダ・アムステルダムの大学神学部を受験するため勉強をはじめるが、あまりの科目の多さに挫折してしまう。それでも聖職者になりたいゴッホは伝道師を目指し、ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に通うが、ベルギー人でないことから周りの生徒と同じ扱いは受けれないと通達を受け、南のボリナージュ炭鉱へ伝道へ向かった。労働者へのあまりにも献身的な態度が、伝道師協会には奇行に映り仮免が許可されることはなかった。
ボリナージュで伝道師への道を断たれたゴッホはボリナージュ近郊のクウェムでな毎日を過ごした。生活費は父親に送ってもらっていた。この頃ゴッホは自分を見つめなおし、自分が人よりできることは「絵を描くこと」だけと思い至り、農家や農民などスケッチをはじめた。しかし家族からは働かないゴッホに非難の目が向けられ、父親からはヘールの精神病院に入れようとしたことで口論となる(ヘール事件)。見かねた弟のテオ(グーピル商会に勤務)はゴッホに金銭援助をはじめた。
経済的な問題からゴッホは1881年(ゴッホ28歳)に実家のあるオランダ・エッテンに戻る。ゴッホは聖書の影響で、大地に根づき毎日を暮らしている農民こそ高貴な存在と考え、農夫や田園風景などをスケッチした(1850年代のフランスではすでにこの考えをもつ一派が登場し、田園のバルビゾン村に住み田園や農民を描いた。バルビゾン派と言われ、主な画家にジャン=フランソワ=ミレー、シャルル=フランソワ=ドービニー、カミーユ=コロー、テオドール=ルソーなど)。さらにバルビゾン派のミレーを尊敬し、ミレー作品の模写に努めた。
ゴッホの親族は絵画関係者が多く、その意味ではゴッホは恵まれていた。グーピル商会への就職時もそうだったが、親戚にアントン=マウフェがいた(彼は当時オランダで流行していた写実的な絵の一派のリーダー格でハーグ派と呼ばれた)。ゴッホは彼を頼り、単身ハーグでマウフェから指導を受ける。しかしわずか1年ほどでゴッホの女関係がもとで師マウフェとの関係が悪化する事態となった。
マウフェとの関係悪化の原因は『ゴッホが娼婦(通称シーンと呼ばれる)と同棲をはじめた』ことであった。現代の感覚もそうだが、家族が子供連れの娼婦と同棲をはじめた、と聞けばどうだろうか?もちろん反対するだろう。ゴッホ家も同様に弟テオをはじめ家族は猛反対した。しかしゴッホは「もし目の前に僕が助けなければ死んでしまう女性がいたら、そのまま見捨てるだろうか?僕にはそんな真似はできなかった」と弟テオの手紙に書き、1年余り同棲した。
しかし1883年9月家族の説得に応じシーンとの別れを決心する。シーンとの喧嘩が絶えず、生活するためにシーンが娼婦に戻ると言ったことが決定的だった。
バルビゾン村に旅立ったゴッホの尊敬する画家ミレーのように、同じく必要なものは大地で雄大に生きる農民の姿と考え、オランダ・ドレンテへと旅立った。
ドレンテでミレーのように農民風景を描いたりミレーの模写をしたりして1年余り過ごしたが、1883年末(ゴッホ30歳)家族の住むヌエネン(父親の仕事でエッテンから転居)に帰省した(金銭的な理由と思われるが詳しい理由はわかっていない)。
父とは折り合いが悪かったが、話し合いの末に実家の小部屋をアトリエとして使用することを許可してもらえた。さらに翌1884年初旬に母親が足を骨折し、ゴッホが献身的な介抱をするうちに家族との関係は好転した。
ゴッホは数年前から農夫を題材に油絵や素描を数多く描いたが、あくまで練習用の習作(エチュード)であり、他人に見せるものではなかった。そこで約1年をかけて原案を練りに練り、構成画(タブロー)を考えた。
それが、「ジャガイモを食べる人々」である。
日々の暮らしを一生懸命に生きる農民を主題に、大地から採れるじゃがいもを食べている姿こそゴッホにとって崇高な存在であった。じゃがいもを取る微細な手の動きまで入念にデッサンし作り上げた『ゴッホはじめての大作』であった。
しかし、絵の評価について、ゴッホ自身は満足したが周囲はそうではなかった。ベルギー時代の友人の画家ラッパルトには人物の描き方や遠近感など些細な点まで批判を受け、弟テオ(グーピル商会の画商としてパリで勤務)からは色彩が暗く、今の時代に即応していないと批判を受けた。さらに同年、父親が急死し、父親の信頼で契約していた部屋を打ち切られたことでヌエネンを去ることを余儀なくされた。
しかし、オランダを去りパリで最新の絵画に触れることで、ゴッホの才能が急速に開花するのである。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」