パリで1886年3月〜1888年2月まで弟テオと同居し、最新の絵画技法を観て影響を受けたことでゴッホの作品は一様に明るくなった(詳しくは「ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)」参照)。
当時のパリは『印象派』と呼ばれたモネやルノワール、ドガらが世間に認知され売れっ子画家となりいわゆる「巨匠」と呼ばれはじめていた。その中で印象派をさらに深化させ、独自の絵画技法を追及する才能ある若手画家がパリに集まっていたのである。彼らは後に『後期印象派』または『ポスト印象派』と呼ばれることになる。しかし彼らは決して『印象派』の技法ではないことを誤解しないで頂きたい。印象派のように1つの技法ではなく様々な技法が存在したが、印象派の後に出現したためただ『ポスト印象派』と呼ばれたに過ぎない。そして彼らに影響を受けたのが現代美術の祖とされるマティスやピカソなのである。絵画の歴史は「19世紀の絵画の歴史と進化」をご覧ください
『印象派』は1874年に印象派展という個展を開き、世間の反応は上々であった。それから定期的に印象派展を開き、ゴッホがパリに来た1888年は「第8回印象派展」が開かれた。ちなみに印象派展はこれが最後である。「印象派展」というものの印象派のモネやルノワールは出品せず半ば形骸化していた。印象派ではない若手画家が台頭してきたためと言われている。その代表格が点描主義のジョルジュ=スーラとポール=シニャックであった。
【分割主義または点描主義】
純色の絵の具を点で敷き詰めて制作していく技法。もやのかかったようなうっすらとしたイメージが特徴。当時のパリで大きく脚光を浴びたが、制作時間を要するのが難点。スーラとシニャックが祖とされる。
スーラとはゴッホがアルルに旅立つ前に1回面識があるだけだが、シニャックとは交流があった。ゴッホの耳切り事件直後、シニャックは南仏に旅行がてらアルルに見舞いに行っている。さらにその際軟禁状態にあったゴッホの入り口の閂を壊して会いに来てくれたという。
カミーユ・ピサロはモネ・ルノワール・ドガ・シスレーらとともに印象派展をまとめてきた重鎮。唯一ピサロのみが8回の印象派展すべてに出展している。非常に温厚な性格だったという。息子のリュシアン・ピサロも画家で親子2代でゴッホと交流があった。さらにオーヴェル=シュール=オワーズのガッシェ医師と知り合いでゴッホに彼を紹介したのはピサロである。ガッシェ医師については「ゴッホの生涯考察(療養・自殺まで)」をご覧ください。
コルモンの画塾とはフェルナン・コルモンが教えていたアトリエ。ゴッホは当初ここで学ぶためにパリに出た。結果あまりゴッホは得るものがなかったようだが、ここで様々な人と交流を持った。まずゴッホに日本趣味(ジャポネズリー)を与えたというエミール=ベルナール、そして後にポスター画で一世風靡するトゥールーズ=ロートレックである。
またエミール=ベルナールを介してエミール=シェフネッケル、ポール=ゴーギャンと交流をもった。シェフネッケルはひろしま美術館蔵「ドービニーの庭」の加筆を行った人物であり、ゴーギャンは南仏アルルでゴッホと共同生活した。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」