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ゴッホ自殺の考察

ゴッホは1890年7月29日オーヴェル=シュール=オワーズでピストル自殺で死んだ。しかしその自殺には謎があり、ピストルはどうやって入手したのか、、なぜ突然自殺したのかなど、わかっていないことが多い。専門家の中には他殺説まで出ているほどである。さすがにゴッホ美術館側は否定しているが、ピストルを撃ったという1890年7月27日に何が起きたのかは今となっては誰もわからない。

しかし、当時の文献や記録、ゴッホの手紙などを筆者が独自に研究し、考察した。あくまで筆者の推察であるから参考程度に読んでいただきたい。

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ゴッホが滞在していた宿屋の主人の証言

オーヴェルでゴッホは「ラヴー」という宿屋で滞在していた。そこで皆に看取られ亡くなったのであるが、そのラヴーの主人の回想録によると、

7月27日夕方遅くに彼(ゴッホ)はどこかに外出した。そして夜9時ごろ戻ってくると、彼は力なさそうに見えた。私は容態を聞くと「何でもない」と答え2階の自室に戻った。しかし唸り声が聞こえ、彼の部屋に入ると、彼はピストルで自分の胸を撃ったことを告白した。私はすぐさま村医者とガッシェ医師を呼びに行かせた。医者は銃弾を取り出すことは不可能と判断し、容体を見守ることにした。

翌朝、弟のテオに知らせるとすぐオーヴェルに来た。彼(ゴッホ)は一日中ベッドに横たわりパイプをふかせていた。しかし翌29日早朝、容体が急変し息を引き取った。最後の言葉は『こうして死にたかった』だった。

オーヴェルでのゴッホの体調は?

サン=レミの療養院では大きな発作に見舞われ絵の具を飲み込もうとしたこともあったが、オーヴェルに移ってからは大きな発作には見舞われていなかった。オーヴェル前にパリに立ち寄りゴッホの妻ヨーと初対面をしたとき、慢性的に喘息するテオより体つきががっちりしていて頑強そうな男性と感じたという。体調面から自殺を考えた可能性は低い。

荒れ模様の空の麦畑
「荒れ模様の空の麦畑」 1890年7月
カラスの群れ飛ぶ麦畑
「カラスの群れ飛ぶ麦畑」 1890年7月
ドービニーの庭
「ドービニーの庭」 1890年7月

7月初旬ゴッホは悲しみに暮れる

自殺する数週間前の7月初旬、テオからパリに至急来て欲しいと連絡を受けた。テオは給与面で不満があり独立を考えているという相談であった。妻ヨーは反対し議論は真っ二つに割れた。ゴッホはテオから金銭的援助を受けていることから重荷になっているのではと悲観した。

翌日オーヴェルに戻ったゴッホはテオに「(気持ちが滅入って)絵筆がほとんど手から落ちそうだった。しかしあれから三点の大きなキャンバスを描きあげた。それらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気兼ねせず極度の悲しみと孤独を表現しようと努めた」と書いた。

それから数日後の母と妹宛の手紙では、不安や同様もかなり鎮まってきていると書いていることから、かなりの精神的不安がゴッホにのしかかっていたに違いない。

テオが昨年結婚し、子どもが産まれさらに給与面で不満を漏らしていたことを、ゴッホは自分がテオの重荷になっていると考え「もし自分がいなくなればテオに負担をかけることがなくなるのでは」と思いつめた可能性は十分に有り得る。

筆者の考察

前置きしておくが、あくまで筆者個人の見解である。

ゴッホは上述の『テオの給与面での不満』について頭を抱えていた。
「もうテオは独身貴族ではない。妻や子どももいる身だ。今までどおり仕送りなど到底不可能だろう」と。

さらに「僕の絵は売れるどころか、絵の具や画布でお金ばっかりかかっている。もはやこれ以上続けていくことはできない」

テオへの手紙に興味深い記述がある。『ミレーは死んでから作品が高騰した』

ゴッホも感じたかもしれない。「もしかしたら僕も死んでから作品が売れるのかも…」と。
そして件の7月27日決心したゴッホは引き鉄を引いた。

ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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