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ゴッホの生涯考察(療養・自殺まで)

第5章 療養院で発作との戦い

サン=レミのサン=ポール療養院に1889年5月ゴッホ36歳のときに入院することとなった。耳たぶを切った後のゴッホは精神的に不安定な兆候があり突然気絶したり、絵の具を飲み込もうとしたという。療養院の病院長は「てんかん」との診断を下しているが、それだけでは説明できないことも多く、解明されていない。

サン=レミ時代以降ゴッホの代名詞とも言える独特の『うねり』の筆触が現れはじめた。一体ゴッホは何を思い、何を考え、何をしたかったのか考察していきたい。

独自の表現様式「うねり」を開花

星月夜
「星月夜」 1889年6月 サン=レミ糸杉
「糸杉」 1889年6月 サン=レミ糸杉と星の見える道
「糸杉と星の見える道」 1890年5月 サン=レミ

ゴッホの代名詞ともいえる「うねり」。それはこのサン=レミ時代からはじまったものである。アルル時代は「色彩」を研究し、色を相互に引き立たせる補色の関係や、赤が情熱、青が冷淡といった「色」そのものの力を研究したが、サン=レミではモティーフをそのまま写実的にデッサンするのではなく、モティーフが持つ力そのものを自分なりに解釈して表現するスタイルを研究した。その結果、うねるような筆触でデッサンすることで、ゴッホの異常なまでのモティーフに対する情熱が表現されている。これは「表現主義」の先駆けであり、後のルオーやマティスに大きな影響を与えた。

題材が「ひまわり」から「糸杉」へ

アルル時代に好んで題材にしたものが「ひまわり」だった。ゴーギャン到着の前に黄色い家に飾ろうと心躍らせて制作したのだろう。まさに「太陽」を連想させるモティーフだった。しかしサン=レミでは一転「糸杉に心を惹かれている」、とゴッホは述べた。糸杉は「死」を連想させる木で、イエス=キリストが磔刑に処されたときの十字架は糸杉で作られたと言われている。聖職者になりたかったゴッホは知らないはずはなく、もしかしたらアルル時代に抱いていた「希望」や「夢」が儚いものとなり「死」や「孤独」がゴッホを支配していったのではないだろうか。

テオの産まれた子のために制作

花咲くアーモンドの木の枝
「花咲くアーモンドの木の枝」 1889年2月 サン=レミ

筆者がゴッホの作品の中でもっとも好きな作品の一つ「花咲くアーモンドの木の枝」。これは弟テオに男の子が誕生したときに送った作品である。きれいな青空に可憐なアーモンドの花。純粋に出産を祝福してプレゼントしたに違いない。

療養院を退院

入院直後は療養院を「落ち着いた場所」と話し、気に入っていたようだが、半年もすると嫌気がさしてきた。まわりの重度の精神病患者を見ていると自分の発作はましに思えるが、同時に恐怖感にさいなまれることが多くなったという。弟テオはつてを頼って、印象派の画家カミーユ・ピサロの友人の精神科医ガッシェ医師に診てもらうようにゴッホに提案、医師のいるパリ近郊のオーヴェル=シュール=オワーズに転居することになった。1890年5月のことでサン=レミには約1年間の滞在であった。

終章 オーヴェル=シュール=オワーズにて

1890年5月下旬(ゴッホ37歳)にサン=レミの療養院を退院、数日間パリのテオのもとで過ごした。このとき初めてテオの妻ヨハンナ(通称ヨー)と産まれたばかりの赤ちゃんに会っている。しかし、パリの喧騒で精神状態が悪化し予定より早くオーヴェルに向かった。

ガッシェ医師に共感を見出す

ガッシェ医師の肖像
「ガッシェ医師の肖像」 1890年6月 オーヴェル=シュール=オワーズ

オーヴェルでガッシェ医師と面会したゴッホは妹ヴィルに手紙で次のように書いた。『ガッシェ先生とは友人、いや新しい兄弟であるかのような何かを見出している。それほど僕らは身体的、精神的に似かよっている。も僕と同じメランコリック(憂鬱症)の特性を持っているようだ』

またガッシェ医師自身は日曜画家で、絵画のコレクターでもあった。ある専門家はガッシェ医師の能力不足・診断不足でゴッホを自殺に至らしめたと批判しているが、筆者はゴッホにとって良き理解者であり、友人であったと思っている。

ちなみに右の「ガッシェ医師の肖像」は1990年に日本人が当時史上最高落札額の124億で落札して話題になった。また落札者が「死んだら棺おけの中に入れてくれ」と言った台詞も有名である。

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沈痛な想いで大作3点を描く

荒れ模様の空の麦畑
「荒れ模様の空の麦畑」 1890年7月 オーヴェル=シュール=オワーズ
カラスの群れ飛ぶ麦畑
「カラスの群れ飛ぶ麦畑」 1890年7月 オーヴェル=シュール=オワーズ
ドービニーの庭
「ドービニーの庭」 1890年7月 オーヴェル=シュール=オワーズ

7月初旬、ゴッホは「極度の悲しみをキャンバスの上で表現した」と述べた。何があったのか?事の次第はこうだ。この数日前、テオから至急相談があるからパリに来てほしいと連絡を受けた。テオは待遇面で勤務しているブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会から名称変更)に不満があった。上役に相談して解消されないなら独立して、妻ヨーの兄アンドリース・ボンゲルと共に自営しようと考えた。しかし、ゴッホがパリに到着したときテオとボンゲルの妻二人は独立に大反対、議論は真っ二つに割れていた。その場を目の当たりにし、ゴッホは自分の存在こそが最大の重荷ではないかと危惧したのである。

7月29日ゴッホ、ピストル自殺。半年後弟テオも逝く

ゴッホは7月29日にピストルによって自殺した。ゴッホ研究者たちによってさまざまな説が唱えられているがゴッホ美術館の公式見解によると「自殺」と認定されている。なぜ自殺したのか、当日のゴッホの行動など不明な点が多い。しかし、残されている書簡や当時の証言の記録などから、ゴッホの自殺について考察した。詳しくはゴッホ自殺の考察をご覧ください。

ゴッホ死後、弟テオも元来の病弱な身体にますます精神的に不安定となり、健康状態が悪化。わずか半年後に兄の後を追うようにテオもこの世を去った。ゴッホの友人たちによってゴッホの絵は徐々に世間に認知され、テオの妻ヨーは数年後にテオ宛に送られたゴッホの手紙を整理し書簡集として出版した。生前はわずか1枚しか売れなかった(しかもゴッホ自殺の1年前)ゴッホの絵は急速に価格が急騰していくことになる。

ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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