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19世紀の絵画の歴史と進化

19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端だった。

ゴッホは19世紀終わりの画家であり、敢えて言うなら『ポスト印象派(後期印象派とも)』に分類される。ゴッホがパリで絵画の変遷をみたことはまさに歴史の分岐点であった。運命に導かれたようにパリに行ったゴッホ。

簡単ではあるが19世紀の絵画の変遷を簡単に説明したい。

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『印象派』が誕生するまで

サロンへの入選

グランド・オダリスク
『グランド・オダリスク』ドミニク・アングル

19世紀初頭、政府による美術アカデミー「サロン」に入選し、名声を得ることが必須だった。そして入選するためには政府の役人が気に入りそうな絵画を描く必要があった。それが「宗教画」と「肖像画」である。今の感覚からすると考えられないが、宗教画や肖像画は知識や教養、気品があると見なし、それ以外は下賎な絵画という扱いだった。1600年初頭に流行した宗教画家ニコラ・プッサンの古典主義になぞらえ『新古典主義』と呼ばれた。

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19世紀後半の画家たちの憧れ ウジェーヌ・ドラクロワの台頭

民衆を導く自由の女神
『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ

その新古典主義のアンチテーゼ(反定立)として台頭したのがロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワである。ロマン主義とはオリエンタリスム(異国主義)や感性や色彩を重視する主義で、後の印象派やゴッホに多大な影響を与えた。ゴッホはテオへの手紙にもドラクロワの単語は頻繁に出てきており尊敬している所がうかがえる。

余談であるが、左の『民衆を導く自由の女神』の右のピストルを持つ少年は、同年代の小説家ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の登場人物ガヴローシュの着想となったといわれている。『レ・ミゼラブル』は近年映画化されたのでご存知の人は多いのではないだろうか。ユゴーはこの時代のベストセラー作家だった。

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田園風景を描いたバルビゾン派

落穂拾い
『落穂拾い』ジャン=フランソワ・ミレー

バルビゾン派とは1830年代以降のパリの都会化によって田園風景に郷愁を求め、パリから約70キロ離れたバルビゾン村で田園風景を描いた一派である。主な画家はテオドール=ルソー、カミーユ=コロー、ジャン=フランソワ=ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーである。

ゴッホは牧歌的な農民を崇高に描くバルビゾン派の思想を強く賛同し、ミレーの作品を数多く模写した。またドービニーが遺した自宅(妻は健在だった)を描いた「ドービニーの庭」という作品を描いた(「2作の「ドービニーの庭」の比較」参照)。

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オランピア
『オランピア』エドゥアール・マネ

バルビゾン派と印象派を繋いだ2人

若き印象派の画家たちが制作しはじめた頃、活躍していた2人の画家がいる。ギュスターヴ・クールベエドゥアール・マネである。

クールベの写実主義(自分が見たままの世界を描く主義)は後の印象派に引き継がれ発展し、マネは若きモネやルノワール・ドガたちを牽引した指導者であった。マネの作品は初期印象派を思わせる筆致ながらも、印象派ではない。彼は印象派展には一度も参加せず、サロンの入選にこだわり続けていた。

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『ポスト印象派』が誕生した19世紀末

ポスト印象派とは後世の人々が名付けた呼称である。印象派のような決まった様式ではなく、様々なオリジナルの技法を編み出した彼らをひとくくりにまとめてそう呼ぶのである。ゴッホもその中の一人である。

印象派の席巻

ラ・グルヌイエール
『ラ・グルヌイエール』ルノワール
印象 日の出
『印象 日の出』クロード・モネ

印象派とは見たものをその固有色で描くのではなく、時間のうつろいによって変わる光を描写した一派で、右絵下のモネの「印象 日の出」を評論家が「印象派画家」とシニカルに批評したことが呼ばれた由来。また印象派画家独特の『絵の具をパレット上で混ぜると暗くなるため、純色をキャンバスで並べ合わせることにより視覚的には暗くならずに混ざったように見える』色彩分割法(視覚混合法)は右絵上のルノワールの「ラ・グルヌイエール」がその技法を実践した最初の作品である。

それまで政府主催のサロンに絵画を応募していたが、同じ志の者たちが1874年に「第1回印象派展」を開いた。そのときの主要メンバーがクロード=モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー=ドガ、アルフレッド・シスレー、カミーユ・ピサロ、ベルト=モリゾなどである。

それから76年、77年、79年、80年、81年、82年と開かれ印象派画家たちはパトロンにも恵まれ印象派絵画は世間に広まっていった。

そして1888年、最後となる第8回印象派展が開かれた。印象派展とはついていたものの、モネやルノワールは参加せず、スーラ・シニャックといった若手画家たちが参加した。奇しくもこの年にゴッホはテオを頼ってパリへ来たのである。

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かぐわしき大地
『かぐわしき大地』ポール・ゴーギャン 大原美術館蔵
りんごとナプキン
『りんごとナプキン』ポール・セザンヌ 損保ジャパン東郷青児美術館蔵

ポスト印象派と呼ばれた画家たち

1880年代に入ると前衛的であった『印象派』はもう前衛的ではなくなっていた。印象派が開拓した絵画技法をさらに深化させていった若手画家たちが登場したからである。それがゴッホたち『ポスト印象派』である。

ジョルジュ・スーラとポール・シニャック

スーラとシニャックは点描という細かい点を敷き詰める技法を探究した。シニャックはゴッホと交流し、耳を切った直後アルルにお見舞いに行っている(「ゴッホがパリで知り合った画家」参照)。

ポール・ゴーギャン

ゴーギャンとの共同生活が耳切り事件のきっかけとなった。初期はクロワゾニズムと呼ばれる黒く太い輪郭線が特徴の絵画技法を開発、晩年のタヒチに渡り原住民を描いた絵が有名。

ポール・セザンヌ

当初は印象派のメンバーと交流を持ったが、その技法を良しとせず独自の遠近感を感じさせない技法を探究した。「自然を円筒・球・円錐としてとらえる」という言葉が有名。

印象派とポスト印象派の影響で20世紀初頭世界中から才能ある画家が集まった。それを『エコール・ド・パリ』と呼ぶ。その中にはスペイン系のパブロ・ピカソ、イタリア系のアンリ・マティス、ロシア系のエドワルド・ムンクなどがいる。彼らが20世紀初頭の芸術運動の中心となった(アール・ヌーヴォー)。

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ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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