ゴッホの画家としてのキャリアはわずか10年弱、油絵は約850点、水彩画は約150点、素描(ペンのスケッチ)は約1,000点確認されている。処分されたものを考えるともっと増えるだろう。10年でこの制作数は他の画家と比べて圧倒的に多い。ゴッホの作品を鑑賞する上で、もっとも大事なのは『制作した時期』である。制作時期や場所によって様々に絵画技法が進化していくからである。筆者は大きく4つに分類した。
読めばゴッホの作品を観るのがもっと楽しくなると思うのでぜひ熟読していただきたい。
ゴッホは聖職者の道を断たれ、画家として決意したのが1880年27歳の頃である(詳細は「ゴッホの生涯考察(画家としてスタート)」参照)。農夫を主体においたバルビゾン派の画家ミレーを敬愛し、自らも農夫や田園風景のスケッチに励んだ。大地や農民を主体においているので当然色調は暗くなる。
そして数々の農夫や大地をスケッチし、初めての構成画(タブロー)と呼ばれるのがゴッホ美術館蔵の「じゃがいもを食べる人々」である。
パリで弟テオと同居し、最新の流行を知ることでゴッホの絵は一様に明るくなった。(詳細は「ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)」参照)。パリ初期の頃は多くの花を描き色彩を学び、画塾で絵画技法を学んだ。またこの頃パリで流行していたスーラ・シニャックが祖とされる「点描画法(純色の絵の具を細かく点のように敷き詰めて描く技法)」や、浮世絵に見られる平坦なタッチで描く技法(クロワソニスム)を模倣した。
花・画塾で学んだ石膏像のデッサン・浮世絵の模倣・自画像などがこの時代に多い。ゴッホらしい力強い筆致が出始め、厚塗りもこの頃からである。
右絵はこの時代の代表作の「タンギー爺さん」。日本趣味が顕著な一作である。タンギー爺さんとはゴッホが絵の具などを買っていた店の店主で彼の共和主義的な考えを評価し、「将来僕が長生きすれば、タンギー爺さんのようになるだろう」と語った。
アルルに来て初期(1888年2月〜5月頃)はパリ時代とそう変わりはない。題材が変わったくらいである。しかしゴッホは南仏アルルの素晴しい陽気な天気(南仏特有の季節風ミストラルにも苦しめさせられたが)に魅了され、果樹園や風景を多く描いた(詳細は「ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)」参照)。またゴーギャンとの共同生活、破綻、耳切り事件もこの時代である(詳細は「「耳切り事件」の考察」参照)。
1888年夏以降、一気に研究してきた色彩の力を開花させた。右絵の「夜のカフェテラス」はその顕著な一例である。黄色と紫色の補色関係を理解し、沈んだ紫色に黄色の灯りを隣に配置することで綺麗に引き立っている。
【補色】
赤色と緑色、黄色と紫色などを隣接することで互いの色が引き立ちあう色のこと。ゴッホはこれに着目し作品に反映させた。
ゴッホが「絶対的休息」を表現した「ゴッホの寝室」。テオに手紙で『色彩がちゃんとものを言わないといけない。そして色彩の単純化によってオブジェクトにもっと大きな風格を与えることで、休息・睡眠が暗示されるようにしないといけない。つまりこの絵を見たとき、頭が、むしろ想像力が休まるように表現しなければならない』と書いた。色彩が鑑賞者に与えるイメージをゴッホは独自に研究し表現しようと努めていた。
耳切り事件以後、ゴッホは発作が起きるようになりサン=レミの療養院に入院することとなった。療養院では比較的自由に行動でき、発作のないときは作品制作に没頭できた。約1年後、精神科医ガッシェ医師を頼りパリ近郊のオーヴェル=シュール=オワーズに転居。約3ヵ月後の1890年7月29日にピストル自殺する(詳細は「ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)」参照)。
この頃の作品からゴッホの代名詞とも言える「うねり」が登場する。精神的な不安定さを示すほどのうねりの表現を弟テオをして、『これまでなかったような色彩の迫力があるが、形をねじ曲げて表現することに没頭すると、危険な状態に陥るかもしれない』と危惧させた。
確かに右絵の「自画像」を観ると、ゴッホの内面的な精神不安定さがこちらにひしひしと伝わってくる。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」