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ゴッホの唯一の理解者 弟テオ

フィンセント・ファン・ゴッホを語る上で欠かせないのが弟テオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)の存在である。ゴッホが仕事をやめてから自殺するまでの10年弱、画業に専念できたのも弟テオの支援があったからに他ならない。

ゴッホ(フィンセント)は気難しい性格のため、家族(特に父親)とは確執があった。友人も決して多いほうではなく、ゴーギャンとの共同生活も2人の個性のぶつかり合いから2ヶ月弱で終焉している。しかし、テオはそんなゴッホをずっと支援し、兄の絵の良き理解者となった。そんなテオとはどんな人物なのかを紹介したい。

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テオの写真
テオの写真
テオの肖像
テオの肖像
ヨハンナの肖像
ヨハンナの肖像(ゴッホの作品ではない)

テオドルス・ファン・ゴッホ

テオはフィンセントの4つ下の弟で1857年に生まれた。5人兄弟の次男で妹が2人と弟が1人いる(フィンセントは長男)。伯父のフィンセント(セント伯父)がグーピル商会という画商の役員をしていたことから、兄のフィンセントに遅れること4年1875年よりグーピル商会に勤務する。

ゴッホの手紙によると、ゴッホへの金銭的援助をはじめたのは1880年の6月頃。
聖職者への道を断たれ実家のあるオランダ・エッテンに戻ったが、父親との口論の末出て行った頃である。

ゴッホの絵の良き理解者

テオはゴッホの絵の最大の良き理解者であった。ヌエネン時代の初期の頃は暗い色調を好むゴッホに対し、最新のパリの作品の色調は明るいとアドバイスしている。

パリで同居していた頃は、気難しいゴッホに手こずらされ、見かねた妹のアンナが「援助をやめるように」と忠告をした際、「金の問題ではない、気持ちが通じ合えないことが最大の問題だ」と兄の気持ちに寄り添えないことを嘆いている。

ゴッホが南仏アルルに旅立ってからも「今は認められていないが、いつかは売れる日が来よう」と妹に話し、兄の絵を評価していた。

ヨハンナと結婚 子どもが生まれる

友人アンドリース・ボンゲルの妹ヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と1889年31歳のときに結婚、1890年1月には子どもが生まれている。しかし、家族ができたことで、ゴッホは自分への援助が断たれるのではないかと不安に思うこととなる。奇しくもゴッホはその半年後に自殺している。

画商としての腕は?

途中でグーピル商会(後にブッソ=ヴァラドン商会と改称)をやめたフィンセントとは違い、テオはずっと画商であった。さらにモンマルトル大通りにあるパリ支店を任されるなど上層部からは信頼されていた。今で言うと本社の本部長のようなものである。
しかし、テオは給与面では不満があったようだ。フィンセントに「『ケチのブッソとヴァラドンに給与を増やすように不満をぶちまける、さもないと独立を考える』とぶつけるつもりだ」と書いている。結局それは上層部との話し合いでなくなり、そのことを知らないゴッホを不安がらせた。

兄と共に生きた人生

兄フィンセントが1890年7月末にピストル自殺したことはよく知られているが、テオもその半年後に死んでいる。兄より4つ年下であるから兄よりも若い33歳で死んだことになる。死因は病死。元々、虚弱な体質でぜんそく持ちであったことに加え、兄の死を誰よりも悲しみ、精神に大きな影響を及ぼした。日に日に衰弱し、医者の診断によると梅毒の末期症状であったと言われている。二人の墓はフィンセントが死んだオーヴェル=シュル=オワーズに二つ並んでひっそりと置かれている。

しかし若くして死んだ不幸な兄弟の物語はこれで終わったわけではない。妻ヨハンナや友人たちによってフィンセントの作品群は神格化されていくこととなる。続きは「ゴッホの死後の作品の評価」をご覧ください。

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ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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