残された「ゴッホの手紙」を紐解くとゴッホは実は恋多き男ということがわかる。ゴッホのイメージは一般的には『孤高の画家』であるが、実は誰よりも『家族』を欲していたのだ。実際にハーグ時代は同棲した時期もあり、アルル時代は『画家たちの共同生活』を望んでいた。
ゴッホの手紙に記述されている「ゴッホの恋」を紹介していきたい。弟宛への手紙なので他人にはない赤裸々な内容が書かれている。もしかしたら手紙に書いていない恋もしているかも知れない。ゴッホの違う一面が見れて面白い。
書簡の中にゴッホの恋についての回想シーンがある。『僕が二十歳のとき知った恋はどんなものだったか。説明は難しい。肉体的情熱は当時はとても弱かった。(中略)僕は落ち込んだが、そこからまた立ち直った。』別の男と結婚したことでゴッホは失恋したようだ。青春時代の苦い思い出である。
1881年ゴッホ28歳の秋、ゴッホはオランダ・エッテンの実家に戻りデッサンの練習をしていた(「ゴッホの生涯考察(画家としてスタート)」参照)。そのとき親戚で聖職者の伯父の娘でアムステルダムからエッテンに休暇に来ていた7歳上の未亡人さらに2歳の子どもがいるケー・フォス・ストリッケルに恋をしたのである。
このときはゴッホは相当本気だったようでこの頃のテオへの手紙はほとんどケーのことばかりである。しかし、ケーは『だめです。絶対にだめ』という言葉で頑なに求愛を拒否した。しかしゴッホはこれで諦めず何回も何回もケーにアタックした。
ケーはゴッホを避けるようにアムステルダムに帰ってしまったが、ゴッホの恋の情熱はますます火がつくばかり。なんとアムステルダムまで追いかけていったのである(しかも旅費はテオに無心して!)。結局アムステルダムに2回も行ったが、どちらもケーには会わせてもらえずゴッホは失恋するのだった…。
ケーに拒絶され傷心のゴッホは父親との関係悪化と絵の修行のため、オランダ・ハーグに向かう(「ゴッホの生涯考察(画家としてスタート)」参照)。1882年の初旬寒い冬の夜のことであった。ゴッホが歩いていると、街灯に今にも倒れそうな身重の女性(シーン)が立っていた。ゴッホはシーンに食べるものを与え、家賃まで支払ってあげたと(モデルになるという条件も付けたが)。さらにテオへの手紙に『僕だって一度は結婚する権利はある』とテオへ結婚の意思表示まで匂わせた。
もちろんテオは猛反対、一年ほどの同棲生活でシーンが働き口として娼婦に戻ると言い出したことから口論が続き破局する。
これは筆者の推察だが、ゴッホは『家族』を求めていたのではないかと思う。ケーに求愛するまで、ケーとその子どもと散歩したり団らんしていた。その中で家族の暖かさを感じた。シーンを助けたのは、『善きサマリア人』に倣ったに違いない。しかし同時に家族を求めていたゴッホは、娼婦だろうと反対されようと結婚して家族となりたかったのだ。
1884年初旬ヌエネンの実家に戻り、素描などデッサンの勉学に励んでいたゴッホは近所の10歳年上のマルホット・ベーヘマンから求愛される。ゴッホは求愛を受け入れたが、マルホットは家族から反対され、ゴッホの前でストリキニーネといいう毒を飲んだ。その様子をテオに赤裸々に書き送っている。『君に全てを語るなら優に一巻の書は必要だ。ベーヘマン嬢が毒を飲んだのだ。(中略)それにしても今度の事件で僕の気持ちがどんなに打ちのめされたか。それはものすごい恐怖だった。』
結局このスキャンダルが原因でマルホットとも破局することとなった。
1886年2月ゴッホ33歳、パリにいるテオと同居をはじめた(「ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)」参照)。パリでロートレックやエミール=ベルナール、ルイ・アンクタンなど様々な若手の無名画家と知り合いになった(「ゴッホがパリで知り合った画家」参照)。その画家たちは「カフェ・タンブーラン」で絵画を飾ってもらった。そのカフェの女店主でイタリア系のアゴスティーナ・セガトーリとゴッホは情事を持った。ゴッホはセガトーリの肖像画も描いている(右絵)。しかし、その店の他のスタッフとトラブルになり結局セガトーリとは破局した。ちなみに「タンブーラン」とは椅子や机が『タンバリン』の形をしていることから。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」