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代表作「ひまわり」は複数あった!

日本でもっとも有名なゴッホの絵と言えば『ひまわり』である。実はこの『ひまわり』ゴッホによる5点も同じ構図の作品があるのはご存知だろうか?アルル時代に構図が異なるものを含めると7点にもなる。日本の損保ジャパン東郷青児美術館(東京都新宿区)のひまわりはオリジナルの模写作品である。ちなみに日本の『ひまわり』は1987年安田火災海上(現在の損保ジャパン)によって58億円の高値で落札された。

なぜゴッホは何点も『ひまわり』を制作したのか。他の『ひまわり』はどこにあるのか。詳しく考察していきたい。

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世界中に散った『ひまわり』

※作品をクリックすると拡大表示でご覧いただけます

ひまわり
ノイエ・ピナコテーク(ドイツ・ミュンヘン)蔵 1888年8月
ひまわり
ナショナルギャラリー(イギリス・ロンドン)蔵 1888年8月
ひまわり
損保ジャパン東郷青児美術館(東京・新宿区)蔵 1889年1月
ひまわり
ゴッホ美術館(オランダ・アムステルダム)蔵 1889年1月
ひまわり
フィラデルフィア美術館(アメリカ・フィラデルフィア)蔵 1889年1月
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『ひまわり』を制作するまでの構想は?

三輪のひまわり
「三輪のひまわり」1888年8月 アルル
五輪のひまわり
「五輪のひまわり」1888年8月 アルル

テオ宛への書簡の『ひまわり』の初出は8月初旬の第五二六信である。

僕は今、マルセイユ人がブイヤベースを食べる時と同じ熱心さで仕事をしている。僕が描いているのは大きな『ひまわり』だとしても、君は別に驚かないだろうね。今、三枚の画布に取り掛かっている。一枚目は「緑の花瓶にさした三輪のひまわり」の十五号サイズ、二枚目は「濃紺の背景に種子のあるのと葉を取ったのと、つぼみの三輪のひまわり」で二十五号サイズ、三枚目は「黄色の花瓶にさした十二輪のひまわりとつぼみ」で三号サイズだ。三枚目のものは明るい色が明るい色に重なっており、これを一番良いものにしたい。もっと描きこんでいくつもりだ。

とあり、続いて

ゴーギャンが僕のアトリエで一緒に暮らすことを期待して、部屋の装飾をつくりたい。それも大きな『ひまわり』ばかりで。(中略)この計画を実行すれば全体が青と黄で一つのシンフォニーになるだろう。

とある。最初はゴーギャンのために装飾画として右の『三輪のひまわり』と『五輪のひまわり』2点と、上のノイエ・ピナコテーク蔵の『ひまわり』を考えていたのがわかる。さらに数日後の第五二七信の手紙で

僕は今、四枚目の『ひまわり』を描いている。この四枚目のものは、十四本の花の束で背景は黄色、昔描いたレモンの色と同じような色だ。

と書いている。これはナショナルギャラリー蔵の『ひまわり』で、一枚目と角度を180度変えて制作しているのがわかる。一枚目が十二輪であるからつぼみが咲いたのだろうか。ゴーギャンに見せるために4枚の『ひまわり』を描いたのである。

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耳切り事件後の『ひまわり』制作

ゴーギャンの装飾画のために『ひまわり』を飾ろうと計画したゴッホで、計画通りゴーギャンに見せたものと思われる。ではなぜ、ゴーギャンとの共同生活が破綻になった耳切り事件(1888年12月23日)後、の数週間後に『ひまわり』3点(上の5点の右3点)を描いたのだろうか?1889年1月はゴッホの発作がひどい時であまりテオへの手紙が書かれていない。1月23日付の手紙で『ゴーギャンは「ひまわり」を欲しがっている。この2点のうちどちらかを書いてあげよう』とある。

そして、その手紙に最後には『ジャナンには「芍薬」、コストには「立葵」、そして僕にはちょっとした「ひまわり」があるのだ』とある。ゴッホ自身『ひまわり』は自信作、代表作であった。少しでも自分の絵を売ろうと模写したのかもしれない。

ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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